2009年06月17日

大型のゴム風船本来はラジオゾンデの気球用で

大型のゴム風船。本来はラジオゾンデの気球用で、大きくて高価だが、個人でも購入可能。天然ゴム製で普通の風船よりも柔らかい肌触り。色は乳白色が主だが、小型の気球は橙色のものもある。気象庁で最も多く使用しているもの(通称「600型」という。他に1200型等がある)は内部に水素ガスを充填して使用する(ただし南極観測隊および気象観測船はヘリウムを使用)ので、火気厳禁である。600型に水素を充填して使用する場合、地上での直径は通常約1.6m、海抜高度3万m付近で破裂する直前の直径は約8mに達する。日本では主に気球製作所およびトーテックスが製造している。

細長い風船。大道芸などに使用されていて、空気を入れた後にねじったり曲げたりして、生き物などの形を作る。製作する事は「バルーンモデリング」とも呼ばれる。


ジェット風船 [編集]
細長い風船の口に笛を取り付け、飛んでいくときに音が出るようにした風船。最近はスポーツの応援で観客が空気を入れたものを一斉に手放して雰囲気を盛り上げることに使われる事が多くなった。詳しくはジェット風船を参照。

バンジージャンプ
地球温暖化
体外離脱
白血病
花見
VDT症候群
元素周期表
油彩画
民話
翻訳
賃貸借
水上スキー
漢方薬
スキー
心療内科
妖怪
血液学
近畿地方
ウエストナイル熱
中国地方

UFO風船 [編集]
UFO風船は別名としてメタリック風船・マイラー風船・フォイル風船等の名称も存在するが、認知された定まった名称は確立されていない。最近は主に販売向けの風船としてゴム風船に代わって用いられる事が多くなった。ゴム風船に比べて印刷面に優れ自由な形が生成できる事、また素材としてゴム風船に比べて気体が抜けにくく長持ちする特徴がある。通常ヘリウムをゴム風船に入れた場合は1日も持たない場合が多いが、この風船では数ヶ月持つ場合もある。

素材はフィルム(ポリエチレン・ナイロン等)の上にアルミを蒸着させている。アルミは金属の一種であるため、電気などを通す。またこれらの素材は人工的に作られたものであるため、風船飛ばし(バルーンリリース)を行ってはいけない。そのため、このような風船には通常重り等を付けて飛ばないようにする。実際電線に絡まってショートする事が多く、これによって電車が止まったケースも多く、電車関係のイベントで風船が使われなくなった例もある。

2009年05月31日

中央統治機構

地方統治機構に関しては唐の制度を模倣しており、『新唐書』の記載によれば三省・六部・一台・一院・一監・一局の行政機構が存在しており、名称こそ異なるが、唐の三省を模倣した行政機構が設置されていた。しかし唐の制度をそのまま移植したのではなく、渤海の現状に基づき、機構を簡略化し、唐の二十四司を十二司に圧縮して編成しているのも特徴である。

宣詔省
唐の門下省に相当し、中台省が提出した政令を審議した。長官は左相であり、品秩は正二品である。その下に左平章政事が置かれ、属官として侍中がいた。
中台省
唐の中書省に相当し、政令の草案起草と修訂を担当した。長官は右相であり、品秩は正二品である。その下に右平章政事が置かれ、属官として内史がいた。
政堂省
唐の尚書省に相当し、政令の執行を担当する行政機関の頂点に位置していた。長官は大内相であり、品秩は正二品の上位であった。助手として左右の司政が置かれ、左右平章事の下に位置していた。属官には左右のニ允がいた。下部に六部を設置し統括していた。
忠部
唐の吏部に相当し、文官の採用・考課・勲封を職責としていた。
仁部
唐の戸部 (六部)に相当し、土地・銭穀を職責としていた。
義部
唐の礼部に相当し、儀礼・祭祀・貢挙を職責としていた。
観光 養毛 増客対策 興信所 行政書士 生命 メンタル 家具 包茎 ギフト セミナー 遊園地 パソコン 関東 インプラント 宣伝 エイジ 賃貸 仏壇 包茎 懸賞 リフレ 古着 プリスクール おもちゃ 海外留学 交通 脂肪吸引 中国四国 豊胸 法人設立 キャッシング プチ整形 経営 介護 包茎 ローン リフレ 贈答品 ステイ 学習指導 学習指導 宿泊施設 理容 内職 インプラント 雇用 探偵 リフレ バイク

礼部
唐の刑部に相当し、最高司法機関を職責としていた。
智部
唐の兵部に相当し、武官人事・地図作成・車馬武器の管理を職責としていた。
信部
唐の工部 (六部)に相当し、交通・水利・建築及び技術者の管理を職責としていた。
中正台
唐の御史台に相当し、最高監察機構であった。長官を大中正と称し、唐の御史大夫に相当している。
殿中寺
唐の殿中省に相当し、王室の衣食住や行幸などの生活諸般の管理を担当した。長官を大令と称し、唐の殿中監に相当する従三品であった。
宗属寺
唐の宗正寺に相当し、王族の宗親族籍を初めとする事務管理を担当した。長官を大令と称し、唐の宗正卿に相当する従三品であった。
文籍院
唐の秘書省に相当し、経籍・図書の管理を担当した。長官を文籍院監と称し、唐の秘書督に相当する従三品であった。日本に派遣された19次遣日大使の李承英の官名が「文籍院述作郎」とあり、唐の述作局に相当する「述作局」或いは「述作署」が設置されていたことが窺える。
太常寺
唐でも同名の太常寺が存在している。礼楽・郊廟・社稷の管理を担当した。長官は太常卿と称され、正三品であった。
司賓寺
唐の鴻臚寺に相当し、外交と周辺の少数民族関連業務を担当した。長官は司賓卿と称され、唐の鴻臚卿に相当する従三品であった。
大農寺
唐の司農寺に相当し、農業及び営田、穀倉の事務・管理を担当した。長官は大農卿と称され、唐の司農卿に相当する従三品であった。
司蔵寺
唐の太宰府に相当し、財務、貿易の事務・管理を担当した。長官は司蔵令と称され、唐の太府寺卿に相当する従三品であった。
司膳寺
唐の光禄寺に相当し、王廷の酒食の担当した。長官は司膳令と称され、唐の光禄卿に相当する従三品であった。
冑子監
唐の国子監に相当し、渤海国内の教育を担当した。長官は冑子監長と称され、唐の祭酒に相当した。

2009年04月27日

ロケットエンジンの推進剤

液体燃料ロケット(液体ロケット)は、液体の燃料と酸化剤をタンクに貯蔵し、それをエンジンの燃焼室で適宜混合して燃焼させ推力を発生させるロケットである。人工衛星の姿勢制御エンジンなど一部には過酸化水素やヒドラジンのように自己分解を起こす推進剤を触媒等で分解して噴射する、簡単な構造の一液式のものもある。

液体燃料は一般的に燃焼ガスの平均分子量が小さく、固体燃料に比べて比推力に優れているうえ、推力可変機能、燃焼停止や再着火などの燃焼制御機能を持つことができる。また、エンジン以外のタンク部分は単に燃料を貯蔵しているだけなので、特に大型のロケットでは構造効率の良いロケットが製作できる。一方、燃焼室や噴射器、ポンプなどの機構は複雑で小型化が困難なので、小型のロケットでは同規模の固体ロケットに比べて構造効率は悪化する。また、推進剤の種別によっては、腐食性や毒性を持ち貯蔵が困難であったり、極低温なため断熱や蒸発したガスの管理、蒸発した燃料の補充などで取り扱いに難があるものもある。

液体燃料ロケットの概念が最初に登場したのはコンスタンチン・E・ツィオルコフスキーによって1903年に出版された Исследование мировых пространств реактивными приборами(日本語に訳すると「反動装置による宇宙空間の探求(英語ではResearch of world spaces by jet devices)」)に掲載されたのが初めてである。ツィオルコフスキーが考えた液体燃料ロケットは、燃料として液体酸素と液体水素を使ったもので、現実に作られることはなかったものの、彼は多段式ロケットやロケットに必要な方程式など、現在のロケットに必要なものの基礎を築いた。

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1926年、ロバート・ゴダードによって初めて液体酸素を酸化剤に用いたロケットが実験された。このロケットはアルコールと液体酸素を燃料にする方法だったが、ノズルが上にあり、燃料タンクは下にあった。これはジャイロスコープなどの誘導装置を持たない場合、ゴダートが下から持ち上げるより上から引っ張るほうが安定するからだと考えたためであった。このロケットは約2.5秒、高さ約12.6m程度であったが、それでも液体燃料ロケットとしては初の飛行であった。

本格的に液体燃料ロケットが計画された、ドイツのヘルマン・オーベルトが、映画「月世界の女」用に製作した液体燃料ロケットである。これは映画撮影用の模型であって飛行能力は持たず、製作途中に事故で破損してしまい、オーベルトはそのことが原因で製作から逃げ出してしまった。しかしオーベルトの考え方に間違いはなく、そもそも彼は技師ではなくて学者であることから、彼に作らせるのには無理があったのが実際のところである。現実に彼は戦時中はドイツでV2ロケットの研究に携わり、戦後はフォン・ブラウンの薦めもあってアメリカにわたって軍事用ロケットの研究に携わっていた時期もある。

実際に液体燃料ロケットが世に出たのが、ナチス・ドイツが「報復兵器」として使用したV2ロケットである。 ヴェルナー・フォン・ブラウンや、先のヘルマン・オーベルトなどの科学者・技術者が集い製作したこのロケットは、アルコールと液体酸素を燃料にし、ジャイロスコープとアナログコンピューターにより誘導され、ロケットエンジンの下にある推力偏向板(ジェットベーン)により向きを変えられるという、現在存在する液体燃料ロケットの原型とも言える構造をしていた。

世界大戦終結後、鹵獲されたV2や多くの科学者・技術者はアメリカとソ連に連行され、それぞれの地でV2と同じような液体燃料ロケットを製作し、冷戦の軍拡競争で作られた弾道ミサイルとしてそのノウハウを広めることとなる。

現在でも、飛ぶ方向を決めるものが推力偏向板からジンバル機構になり、誘導装置がジャイロスコープからレーザージャイロやGPS、制御装置がアナログコンピュータからデジタル式の(現在のような)コンピュータになるなど、時代相応の技術はつぎ込まれているものの、基本的な概念や構造はナチスドイツのV2、ひいてはツィオルコフスキーの描いたものと同じである。

2009年04月12日

テティス (衛星)

テティス(Tethys、別名Saturn III)は、土星の衛星の一つで5番目に大きい。1684年、ジョヴァンニ・カッシーニによって発見された。

概要 [編集]
名前はギリシャ神話の巨神族(ティタン)の1人テテュスに因むが、天体としてのTethysにはテテュスではなくテティスという片仮名を当てるのが一般的である。また、ギリシア神話には、この天体の由来となったテテュス(Tethys)とは別にテティス(Thetis)というニンフが登場する。片仮名にすると表記が同じなので紛らわしいが、こちらは衛星と関係がないので注意が必要である。

テティスの密度は低く、ディオネやレアと同じように、珪石等の岩石を含む氷が主成分である。最近の研究でテティスが異常に白く、光の反射率が高いのは同じ土星の衛星エンケラドゥスから吹き上げられた氷がその表面に漂着したせいではないかとする説がでてきている。

オデュッセウスという巨大なクレーターが存在しその大きさは衛星直径の40%に及ぶ。また、イサカ・カズマ(幅100km、深さ3-5km、長さ2000km)と呼ばれる巨大な峡谷もあり、これもテティスの円周の75%の大きさがある。 テティスが誕生した頃、テティスはまだ完全には固まっておらず液状であった。オデュッセウスもそのころできたと考えられ、そのためこのクレーターは月や水星のクレーターと比べて平坦である。また、冷えて固まった時巨大な渓谷、イサカ・カズマができたと考えられる。

トロヤ衛星 [編集]
なお、テティスのラグランジュ点には、トロヤ衛星のテレスト(L4)とカリプソ(L5)が存在する。

オフチ ふくち ブラン ぶんかく プラント スマ フロック トトッ メタロ ダイオプ ブリキア パタゴニア ライン パラメータ ジューク ハンガー ビエン きつね ピラミッド ビールス バーテン トパバス パーマワ チュリア しろくま そうこ ハラーム ヒューズ デスバ ループ ティーツ ライブ イペリッ ナビオギ シーディ イザベ アカシア こじゅう オールロ ゼット パートナ リソース レサーチ シュツルー ケオキキ レモン ピッチ ラック まくわ トータル


2009年03月27日

ガリア

ガリア(古典ラテン語:Gallia (ガッリア)、フランス語:Gaule (ゴール))とは、ガリア人(ケルト人の一派)が居住した地域の古代ローマ人による呼称。日本語では、当時のローマ人が用いた古典ラテン語の発音に従って「ガッリア」とも表記される。具体的には現在のフランス・ベルギー・スイスおよびオランダとドイツの一部などを指す。元来の「ガリア」はイタリア半島北部を指すため、地域(地理上の概念)としての「ガリア」とローマの属州(行政区画)としての「ガリア」とは同一ではない。なお、現代ギリシア語ではフランスのことを現在でもガリア(Γαλλία)と呼んでいる。

地理上の概念としてのガリア [編集]
地理上の概念としての「ガリア」の起源は、紀元前4世紀にさかのぼる。イタリア半島北部に押し寄せて定住した部族集団を、ローマ人は「ガリア人」(Galli ガッリー)と呼び、ガリア人の居住するイタリア半島北部が「ガリア」(Gallia ガッリア)と呼ばれるようになったのが始まりである。ローマ人が領土を拡大するにつれ、ガリア人と同系統の諸部族がアルプス山脈の西方・北方にも多数住んでいることが知られるようになり、それらの地域も「ガリア」に含まれるようになっていった。やがてイタリア半島北部は、ローマに制圧され属州となった。
ただみま まおい プロト 光の子 クロスス マンドゥク パロア 変革生活 ポケット コバンソ レスク 白い花 めんこ シュズ モンス ゼルス リュウ カイヤ ハマヒ フォーク ダイア モダリティ いきこう ジアル セーブル フロー ぴかいち さんめし しぎやき オーバ ナビ本陣 海のミネ ナビ朱鳥 NO1里芋 たきかわ にしめ ゾンデ ミストレス マート キシロース オルゴール ディーラム フライ カスタード ツリー 十三夜 フアラ くまざさ ノット クォーツ

イタリア半島北部は、ガリア・キサルピナ(Gallia Cisalpina キサルピーナ、アルプスのこちら側のガリア)またはガリア・キテリオル(Gallia Citerior、こちら側のガリア)と呼ばれた。ローマ化が進んだ後はガリア・トガタ(Gallia Togata (トガータ)、トガを着た=「純ローマの」ガリア)とも呼ばれた。この地域は、ローマ帝政初期には本土「イタリア」に編入されて、「ガリア」から除外されるようになった。

これに対して、アルプスの西側・北側のガリアはガリア・トランサルピナ(Gallia Transalpina トラーンサルピーナ、アルプスの向こう側のガリア)またはガリア・ウルテリオル(Gallia Ulterior、向こう側のガリア)と呼ばれた。この「ガリア」は、共和制末期から帝政期にかけては、おおよそピレネー山脈・地中海・アルプス山脈・ライン川・大西洋に囲まれた地域を指し、その大半は森林地帯であった。現在「ガリア」と呼ばれるのは、この地域であることが多い。狭義には「ガリア・トランサルピナ」はガリア戦争以前にローマの属州であったフランス南部を指す。それより北方のローマ化していなかった地域は、ガリア人の長髪の習慣からガリア・コマタ(Gallia Comata コマータ、長髪のガリア)と呼ばれていた。

2009年03月12日

チェルヴェーテリとタルクイーニアのエトルリア墓地遺跡群

チェルヴェーテリとタルクイーニアのエトルリア墓地遺跡群は、イタリアの世界遺産の一つである。チェルヴェーテリ近郊のバンディタッチャ遺跡とタルクイーニア近郊のモンテロッツィ遺跡という、エトルリア人が残した2ヶ所のネクロポリスが対象となっている。

バンディタッチャのネクロポリス(Necropoli della Banditaccia)は、チェルヴェーテリ近郊にあるネクロポリスの遺跡である。バンディタッチャという名前はイタリア語のBandoに由来している。
キッド マロン マーブル モーダル メープル ピュア スポア 九月の砂 カトブレ ほわい ワイヤー シャム モード イグサ チカツ レーザー ルイス WEB大葉 ブリッジ ルーマニア ネチケット アイド タランチ キャラメル オフェンス ハラタ ヒット メーザー イヤリング ルバッ なかにい 片道切符 いろんな いばば ねっび ローブ アスク リカレ フライト グアバ ナチガイド トライア ブイヨン シャンビ ゼムクリ スケルツォ ナビハズ ビビッド むぎこうじ マッシュル

総面積は400 haで、そのうち訪問可能なのは 10 ha である。全体で1000もの墓があり、その多くが小丘を覆っている。この遺跡は地中海世界最大のネクロポリスである。墓の作成された年代は紀元前9世紀のヴィッラノヴァ文化(Villanovan culture)期から、紀元前3世紀の後期エトルリア時代にわたっている。古式ゆかしいものは、井戸状の竪穴を掘りそこに死者の灰を納めるが、簡素な窪地状のものも存在している。

墓の様式
エトルリア期の墓には、2つの様式が見られる。

道なりに一直線に並んで築かれている「立方体」状の墳丘。訪問可能な区域は2つの道(? via ?)、つまり6世紀のvia dei Monti della Tolfa と via dei Monti Ceriti から成り立っている。
凝灰岩の中に築かれた円形状の墳丘。岩を直接刳り抜いた内部は、玄室、羨道や幾つかの部屋がある。

考古学的知見
この古代文明の遺跡について現在分かっていることの一定部分は、墓の装飾の詳細に負っている。墓の中で最も有名なのはdei Rilieviと呼ばれるものとその紀元前4世紀のレリーフだが、それは碑文からマトゥナス(Matunas)なる人物のものであることが分かっている。墓にはすぐれたフレスコ画群や薄浮彫、生活用具の数々を描いた彫刻などが見られる。

最も新しい時期の墓は紀元前3世紀のものである。それらの中には外部にCippusを具えているものもあり、男性向けには円筒型、女性向けには小さな家の形をしている。

出土品の大部分は、現在、ローマの国立エトルリア博物館(Museo Nazionale Etrusco)とチェルヴェーテリの国立考古学博物館(Museo Nazionale Archeologico)で展示されている。

モンテロッツィのネクロポリス
モンテロッツィのネクロポリスは、タルクイーニア近郊にあり、6000以上の墓が発見されている。バンディタッチャ同様、フレスコ画の描かれた墓なども含まれている。

2009年02月23日

暗黒物質

暗黒物質(あんこくぶっしつ、dark matter )とは、宇宙にある星間物質のうち自力で光っていないか光を反射しないために光学的には観測できない物質のことである。「ダークマター」とも呼ばれる。人間が見知ることが出来る物質とはほとんど反応しないとされており、何で出来ているかは未だに確認されておらず、依然正体が不明のままである。
ダイビ ワサビン ナンピン ライトウイ ブーケ ラケット スーパ スキッダ プラネット 組曲 ナイロン リテラ オーベル シェアリ 白鳳支援 ムート ふるさと ジャパニ キチネッウ ヌビア てかばん クロア パート ラザーニャ ファイター ナポレオン ファタ ウコン パワー ブース ロビューム クーペ ラゴス ユグノー チラム トラサ あわせばお アカ パンフレット スパン バドミン ミレー フルー ミリーカー スカイプ ファン トリプ ハジ カソード シノニム

暗黒物質の存在は、ヴェラ・ルービンにより指摘された。水素原子の出す21cm輝線で銀河外縁を観測したところ、ドップラー効果により星間ガスの回転速度を見積もることができた。この結果と遠心力・重力の釣り合いの式を用いて質量を計算できる。すると、光学的に観測できる物質の約10倍もの物質が存在するという結果が出た。この銀河の輝度分布と力学的質量分布の不一致は銀河の回転曲線問題と呼ばれている。この問題を通じて存在が明らかになった、光を出さずに質量のみを持つ未知の物質が暗黒物質と名付けられることとなった。 なお、暗黒物質を仮定せずにこれらの問題を解決する方法も提唱されている。#暗黒物質という考え方への反論を参照。

暗黒物質が存在するとその質量により光が曲げられ、背後にある銀河などの形が歪んで見える重力レンズ効果が起こる。銀河の形の歪みから重力レンズ効果の度合いを調べ、そこから暗黒物質の3次元的空間分布を測定することに日米欧の国際研究チームが初めて成功したことが2007年1月に科学誌ネイチャーに発表された[1][2]。 同年5月15日のアメリカ航空宇宙局の発表によれば、米ジョンズ・ホプキンズ大学の研究チームがこれを利用して、ハッブル宇宙望遠鏡で暗黒物質の巨大なリング構造を確認したという。10億?20億年前に2つの銀河団が衝突した痕跡で直径が約260万光年(銀河系の26倍)、衝突によりいったん中心部に集まった暗黒物質が、その後徐々に環状に広がっていったものとされる。

1986年に発見された宇宙の大規模構造が作られるまでの時間をシミュレーションした結果、ビッグバン宇宙論から導き出されている137億年といった宇宙の年齢とはかけ離れた長い歳月を必要とすることが明らかになった。そのため、ビッグバン宇宙論が間違っていて修正が必要ではないかという見解が生まれたが、まもなく暗黒物質の存在を仮定すると、ビッグバン宇宙論と矛盾しない時間の範囲内でも、現在のような銀河集団の泡構造ができあがることが明らかにされた。そこで、宇宙全体にどの程度の暗黒物質や暗黒エネルギーが必要なのか、繰り返しシミュレーションが行なわれている。その結果、ダークマターを含めた物質を約30%、ダークエネルギーを約70%にした場合にうまくいくことが確認されている。2003年から、宇宙背景放射を観測するWMAP衛星の観測によって、宇宙全体の物質エネルギーのうち、74%が暗黒エネルギー、22%が暗黒物質で、人類が見知ることが出来る物質の大半を占めていると思われる水素やヘリウムは4%ぐらいしかないことがわかってきている。この観測結果は、宇宙の大規模構造のシミュレーションから予測されてるダークマターの値と、ほぼ一致している。このように二つの方法から推測したダークマターの量がほぼ合うということから、この考えの妥当性がはかられている。

暗黒物質の候補
具体的に何が暗黒物質として宇宙の質量の大半を占めているかであるが、後述するように複数の候補が挙がっている。

これらのうちのどれかかもしれないし、複数かもしれないし、どれでもないかもしれない。それらの候補は大別して素粒子論からの候補と天体物理学からの候補に分けることができる。素粒子論からの候補はWIMPと呼ばれ、さらに熱い暗黒物質と冷たい暗黒物質の2種類に分けられる(厳密には温かい暗黒物質も考えられなくはないが、恣意的すぎるとされている)。

宇宙の晴れ上がりの時に、運動エネルギーが質量エネルギーを上回っていたものを熱い暗黒物質、そうではないものを冷たい暗黒物質と呼ぶ。現状の本命は冷たい暗黒物質シナリオであるが、決定的な弱点はその候補粒子が未だ見つかっていないことである。

また、重力を介してのみ相互作用する物質(シャドーマター)も候補として挙げられているが、これは現状では純粋に理論的な存在であり、観測事実はない。

素粒子論からの候補
ニュートリノ以外は、存在が未確認であり、推測や予言の域を出ず、実在しない可能性を持つ候補もある。

ニュートリノ
熱い暗黒物質の代表例。従来ニュートリノの質量は0であると思われていたが、近年では微少な質量を持っている事がほぼ確実になった。ニュートリノは宇宙全体に存在する数が非常に多い(計算では?100/cm3)ので、質量が10eV程度あれば暗黒物質の候補になるとされていた。しかしながら、ニュートリノの寄与は臨界密度の高々1.5%程度であることが分かってきたので、現在では主要な暗黒物質であるとは考えられていない。さらに、ニュートリノが暗黒物質の主成分だとすると銀河形成論的に困ったことがおこる。銀河団以下のスケールの構造が生まれなくなってしまうのである (free streaming mixing)。これは、ニュートリノ同士の相互作用がほとんど無く互いに通り過ぎてしまい、圧力が生じないことによる。
ニュートラリーノ
超対称性粒子の一つ。超対称性粒子は現在見つかっていないことから不安定であると考えられており、宇宙の初期にほとんどが通常の素粒子と、より軽い超対称性粒子に崩壊していったと考えられている。しかし、超対称性粒子に特有のRパリティ保存則により、最も軽い超対称性粒子 (Lightest Supersymmetric Particle : LSP) は崩壊できず宇宙に残っていると考えられている。電荷を持つLSPがあるならば既に見つかっているであろうから、現在考えられている宇宙暗黒物質としてのLSPは電荷を持たないLSPであり、総称してニュートラリーノと呼ばれている。ニュートラリーノの質量は数GeV?数百GeVの範囲で原子核との散乱断面積は10-4以下と考えられている。
アキシオン
冷たい暗黒物質の代表例。軽い (?10-5eV) 質量しかないが、温度0なので「冷たい」のである。
シャドーマター
超対称性理論によりその存在が予言される物質。重力以外の相互作用をしないため、もし存在したとしても、見ることも触ることも(どちらも光子を媒介とした電磁気力による相互作用である)不可能。重力レンズ効果の観測や、重力波干渉計などを用いた観測が期待される。

天体物理学からの候補
いずれもバリオンからなる。ビッグバン仮説においては、バリオンの存在量が予言できる。その値は、臨界密度の4%程度である。ところが、実際の宇宙の物質密度は臨界密度の22%程度であると見積もられている。したがって、以下の候補を全て考慮に入れたとしても元々のバリオンの量が足りない。そのため、非バリオン暗黒物質の存在を仮定する必要があることに変わりはない。

ブラックホール
小規模なブラックホールは超新星爆発のときに生じる。質量が太陽の数億倍もあるような大規模なブラックホールは銀河中心で観測されているが、まだ成因はよく分かっていない。恒星規模のブラックホールが銀河系内にいくつくらい存在するのか、その質量分布がどのような物か、等も未だ明らかではないため、これは暗黒物質の候補となる。また、原子核大の極微小ブラックホールも多量に存在しているかも知れない。さらに、宇宙誕生後3分ごろに生成されたブラックホールについては、上記のバリオン存在量の制限から逃れることができる。
白色矮星・中性子星
比較的小質量の恒星が燃え尽きると白色矮星・中性子星になる。こうした星が自分で出す光が小さい場合、暗黒物質の候補となりうる。
褐色矮星
恒星誕生の際、核融合が起こるほどのガス質量がなかった場合、明るく輝かないために観測は困難となる。近年、観測精度の向上によって褐色矮星が観測されるようになった。
惑星
観測できる多数の恒星がそれぞれ観測できない惑星を持っている可能性があり、これが暗黒物質の候補になる。
MACHO
Massive Astrophysical Compact Halo Objectの略。銀河ハロー内に存在する、小さくて光学的に観測の不可能(あるいはきわめて困難)な天体の総称。上記の白色矮星、恒星ブラックホールもその一種である。

暗黒物質という考え方への反論
プラズマ宇宙論を用いると、直接観測できない正体不明のダークマターの存在を無理に仮定しなくても、銀河の回転曲線問題などを綺麗に説明できるので、人間から実際に見えている物質とほとんど関わりを持たないダークマターは、考える必要のない架空の物質にすぎないという見方も存在する(プラズマ宇宙論の『銀河形成と回転曲線問題』の項を参照)。

しかし、プラズマ宇宙論を用いて量子電磁気学の方法論で計算すると、そのような未実証の空想上の物質の存在を無理に予言する必要がないという結果になるため、相対性理論とそこから生まれたビッグバン宇宙論のほうが誤っているのではないかとも指摘されている

2009年02月07日

日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)

日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)(にほんかくめいてききょうさんしゅぎしゃどうめい だいよんインターナショナルにほんしぶ)は、日本の新左翼党派(トロツキー主義)。略称、第四インター(口語体はインター)。部外者から四トロ(よんとろ)と呼ばれることもある。第四インターの「四」とトロツキストの「トロ」を組み合わせた名称である。侮蔑的なニュアンスを含む。
キッズ ダーツ すぎな ゼンス サイド カッド 羊の歩み ジニア テンゴリラ ハミング タイトピ すくなか ゲルマ シガレット オーガィ パーシ ヒトゲ メーション ダーパア シリカセ パワー オーテア ミステリー イアタ バクシーシ ミトラ 日本全 ハンガー グプラン インツ ゼウス ピラティ ビーチ フェース ジョッ コアラー スターチ インキャラ チューニ なんぽろ チラリ レーザー だいだい レンニン リケーション トロー ブリッチ マスアキ テンプツ ステーツ

指導者は、西京司(大屋史朗)、岡谷進、太田竜、酒井与七、織田進ら。 機関紙誌は、『世界革命』(旧『第四インターナショナル』)。

1957年12月、日本トロツキスト聯盟から革命的共産主義者同盟に改称。 1958年8月、社会党への全面的加入戦術の提起を却下された太田龍派が脱党して、トロツキスト同志会が結成される(革共同第一次分裂)。 1959年1月、革共同議長だった黒田寛一が警視庁公安部に民主青年同盟の情報を売ろうとしていたことが発覚。8月の革共同第一回大会で黒田を除名するが、本多延嘉ら黒田を擁護した反スターリン主義派が脱党、黒田とともに革命的共産主義者同盟全国委員会を結成する(革共同第二次分裂)。

70年代には「極東解放革命-急進主義統一戦線」を掲げて、とりわけ三里塚闘争に力を入れ、1978年には成田空港管制塔占拠闘争を主導し、日本支部が掲げた成田空港の「3月30日開港阻止」のスローガンを実現させた。

1991年、第四インターナショナル統一書記局派の第13回世界大会は、80年代初頭に表面化した「性差別問題」を理由に、日本支部から「支部」としての資格を剥奪する。世界大会の決定は「女性同志の意志に応じて女性同志を第四インターナショナルのメンバーとみなす」とした。この時点で組織としての日本支部は解体した 現在、日本革命的共産主義者同盟 (JRCL)と国際主義労働者全国協議会(労働者の力)の二つのグループが「支部」ではなく「パーマネント・オブザーバー・グループ」として第四インターナショナル統一書記局に参加している。1987年に形成された第四インター女性解放グループは1995年に実質的に解散した。

指導者は、西京司(大屋史朗)、岡谷進。 機関紙誌は、『世界革命』、『第四インターナショナル』、『プロレタリアート』。

1960年11月、第四インターナショナル日本委員会多数派と統合して第四インター日本支部を形成。

西、岡谷は、50年代初頭の日本共産党の「山村工作隊」や「中核自衛隊」などの武装闘争時代の体験から、とりわけ学生の実力闘争主義的傾向には常に批判的だった。1957年に開始される日本共産党綱領論争において、京都の共産党学生対策部(学対)の責任者でもあった西が執筆した『レーニン主義の綱領のために』(「沢村義雄」名義)は、学生共産党員はもとより当時共産主義者同盟が指導する全学連の内部においても、よく読まれ影響を与えたという。しかし、60年安保闘争における全学連の突出戦術を厳しく批判し、また安保闘争よりも、当時一方で高揚していた三池闘争を重要視し、「三池-全国炭鉱国営化・労働者管理」のスローガンを対置する傾向に、当時の急進的な学生から「経済主義者」と批判され、離反を招いたといえる。

第四インターナショナル日本支部
指導者は、西京司(大屋史朗)、酒井与七、今野求、織田進。 機関紙『世界革命』(1976年から週刊化、96年に『かけはし』に改題)、理論誌『第四インターナショナル』(不定期刊)。

1965年2月、国際主義共産党(ICP 太田派)と統合して日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)を形成。1966年頃に、前年の太田が指導した三多摩社青同による立川米軍基地突入闘争(太田龍の項参照)と日韓条約批准反対闘争の総括をめぐって批判された太田が離脱、太田とICPが形成していた三多摩社青同の「トロツキスト・フラクション」も崩壊する。一方で67年頃から独自に形成されてきた「トロツキスト」を標榜する社青同国際主義派が登場し、日本支部に接近する。社青同国際主義派は、68年の10.21国際反戦デー新宿闘争への800人動員をピークに「新しいトロツキスト潮流の登場」を印象付けた。

1969年の東大闘争における安田講堂攻防戦では、社青同国際主義派の学生メンバーを中心とした日本支部の部隊は、本郷の法研6号館を担当して篭城、機動隊と衝突した。その際に、篠原一教授の研究室が破壊されてマイクロフィルム資料が消失した件について、丸山真男東大教授が「学生たちはナチスでさえやらなかった暴挙を行った」と発言したことは有名である。のちに当時の日本支部の篭城部隊の指揮者は「たまたま自分たちが担当した建物に篠原の研究室があったのであって、ただ単に寒かったから書類やフィルムを手当たりしだい燃やして暖を取っただけ。丸山の感情的な物言いは『日本の進歩派はこんな程度なのか』と当時こちらが驚いた」と1996年に機関紙で明かした。

同年、社青同国際主義派は日本支部に正式に合流して、学生組織:国際主義共産学生連盟(学生インター)に発展する。

酒井らの「新しい世界的青年反乱の時代の始まり」を基本的情勢認識とする急進主義派と、西らの「旧関西指導部」の「労働者革命主義」とでも言うべき当時としては「右派」的な傾向がしばらく共存した日本支部だったが、1969年5月31日におこった大阪教員組合主催の“沖縄奪還大教組全員集会”に第四インター系の「国際主義高校生戦線」のメンバーを含む210人の反戦高校生が主催者の制止を破って乱入し、壇上を占拠するという事態の評価をめぐって論争が発生する。西派は「高校生の行動は運動破壊にすぎない」と断じたのに対して、酒井派は「現在起こっている事態は、フランス五月革命に代表される新しい世代の新しい挑戦なのである。青年の文字どおり急進的な大衆闘争の発展を伝統的改良主義運動の抑圧から防衛しようとしなければならない」と反論、酒井派が多数となる。

以後、西は指導部の第一線からは退き、「全人民急進化の時代」という情勢認識による「極東解放革命」(沖縄、韓国の軍事化を前提とした日本「本土」の -日本社会党および日本共産党的な- 「一国平和主義」に反対し、反植民地運動-アジア人民と「本土」人民の連帯と結合による東アジア総体の反帝国主義闘争の高揚によって米日韓軍事同盟を打ち破る、とする理論)を掲げた「ラディカリズムの極としてのトロツキスト運動」を牽引する酒井、織田の路線が、70年代の日本支部の基調となる。

70年代
この「極東解放革命」路線のもとで、日本支部は、

三里塚闘争(「全国住民運動の頂点としての三里塚」という位置づけ)
70年安保・沖縄闘争(沖縄で起こっているのは軍事植民地に対する「反植民地運動-沖縄革命」であり、また、沖縄住民の九割が要求する本土復帰に対する「反返還」や「沖縄独立」はセクト的な反動スローガンである、という認識から「沖縄人民の本土復帰要求支持・沖縄労農自治政府の樹立」をスローガンとする)
ベトナム革命連帯(チェ・ゲバラの「第二、第三、もっと多くのベトナムを!」という呼びかけに応えて、ベトナム戦争を一般的な「反戦」ではなく、植民地解放革命の進行の過程と捉えて連帯するという立場)
韓国民主化運動連帯(「金大中拉致事件」真相究明闘争、金芝河死刑阻止闘争など)
部落解放闘争(「狭山差別裁判」糾弾闘争、映画『橋のない川』上映反対運動など)
その他、霞ヶ浦高浜入干拓事業反対運動(干拓事業は1978年に中止を決定)やロッキード疑獄糾弾闘争などの大衆運動に積極的に取り組んだ。

日本支部は最上級機関の政治局と各県委員会・地方支部から選出された中央委員会を設置する民主集中制による組織運営を採用した。しかし、日本共産党や中核派の運営方法と違って、大会や上級機関の決定に反対あるいは保留する組織内分派の形成を容認していた点にその組織論の特徴がある。また、大会での重要案件については、賛成・反対両派のパーセンテージを公表していた。あるいは、指導部や大会決定に反対する分派や個人の声明や論文も積極的に機関紙に掲載していた。(この方法論は、第四インターナショナル統一書記局共通のものであり、現在のJRCLに受け継がれているが、日本支部から分裂した一方のグループである労働者の力は民主集中制そのものを否定して「全国協議会」というスタイルを採用している)

その路線的特徴としては、官公労などの「労働者本隊」の戦闘化とその内部での組織化を推し進めつつ、当時ベトナムに代表された植民地解放運動や「労働者本隊」の外で展開されている三里塚や反公害などの住民運動や部落解放運動を結合することによって、「人民総体の反帝国主義化による権力闘争」の高揚を図る、とでも言うべきものだった。また、左翼内部の物理的抗争(内ゲバ)や爆弾などを用いたテロリズムを否定して「大衆運動主義-大衆的実力闘争」を掲げていた。

1972年以降、それまでの新左翼運動の三大党派であった革マル派、中核派、解放派が三つ巴の「内ゲバ戦争」を激化させる中、日本の新左翼の中ではむしろ傍流的存在だった日本支部は急速に勢力を伸ばしていく。

1974年の春闘では、当初は「ゼネスト」を呼号したにも拘らず最終的には政府との妥協によって「ゼネスト中止」を決定した総評指導部に逆らって、日本支部が強い勢力を持っていた宮城県において旧電電公社の労働者を中心に「全宮城ゼネスト貫徹共同闘争委員会」を結成して、4月8日から11日にかけて公務員部門の郵便、国鉄、電信を中心として民間の一部において敢行された「宮城ゼネスト」を主導した。日本支部は70年代を通して「総評青年協のイニシアティヴ奪権」をスローガンに掲げ、その取り組みは80年代初頭の電通労組、国鉄における鉄産労の結成などに結実する。

学生運動の分野では「全学連のセクト化反対・内ゲバを排した学生運動を!」を掲げて「全学連の再建」をスローガンに、東北大学、秋田大学、山形大学、芝浦工業大学、上智大学などに一定の勢力を有した。

75年には、国際主義共産学生連盟(学生インター)と国際主義高校生戦線、そして主に東北地方の反戦青年委員会のトロツキスト・フラクションとして青年労働者を組織していた国際主義労働者委員会(指導者:石森健、大門健一、遠藤一郎ら)が統一して、青年組織・日本共産青年同盟を1400名で結成する。また、自衛官向け宣伝誌『兵士と労働者』(80年代半ば頃まで発行)を発行し、自衛官の組織化を位置づけていた。あるいは「社会主義をめざす婦人運動を」をスローガンに『婦人通信』を発行し、1978年に女性大衆組織・社会主義婦人会議を結成する。

1978年3月26日、「空港包囲・突入・占拠」をスローガンに成田空港開港を阻止する実力闘争を構造改革派のプロレタリア青年同盟、共産主義者同盟戦旗派とともに展開し、地下道から空港内に突入した十五名の行動隊が空港の管制塔に突入して通信機器を破壊した。それと同時に、四千名もの実力闘争部隊が空港各所から突入し、ついには警官隊が発砲する大騒乱となり、成田空港の開港を二ヶ月遅らせたいわゆる「管制塔占拠闘争」を主導した。

80年代以降
80年代に入ると、「成田空港の二期工事着工阻止-空港廃港」を最大のテーマに、反戦-反安保-反核、労働運動の右翼的統一反対などを掲げて、運動を展開する。82年、三里塚現地闘争本部の指導的幹部による「性的接触」が被害女性メンバーの告発によって発覚する。当時の左翼のウーマン・リブやフェミニズム軽視の傾向や、まだ「セクシャル・ハラスメント」や「デートレイプ」などの概念や言葉もなかった時代ということもあり、当初は加害者の行為の定義をめぐって議論が紛糾する。議論の末、「女性の望まない性的接触はすべてレイプである」というフェミニズム的解釈を受け入れ、加害者の行為を「レイプ」と定義し、83年に組織として問題を公表し「自己批判」した上で除名する。また、組織内調査の結果、複数の「女性の望まない性的接触」および「女性差別的な組織対応」が発覚し、加害男性メンバーはいずれも除名される(いわゆる「ABCD問題」)。

この同時期、日本支部は三里塚闘争の方針をめぐって、中核派との対立を深めていた。農民の土地を多くの支援者たちで共有することで、空港公団の土地取得を困難にさせる、いわゆる「一坪再共有化運動」の是非をめぐる空港反対同盟内の農民の対立を背景に、83年3月8日に空港反対同盟は日本支部などが支援する「熱田派」と中核派などが支援する「北原派」に分裂する。この分裂に際して「新しい型の反革命と化した第四インターが、一坪再共有化によって土地を政府・公団に切り売りしようとしている」とした中核派は、1984年の1月に同時五箇所の日本支部メンバーの自宅、そして7月にも同時に三箇所のメンバー自宅を襲撃し、計八人の日本支部メンバーを頭蓋骨陥没や左足切断の重傷者二人を含む負傷をさせる。

このテロに対しては、日本支部は物理的報復ではなく「中核派糾弾キャンペーン」を広範に行うことで、運動圏において中核派を孤立化させることに一定成功する。しかし、「組織の集団生活化」も含むテロへの警戒態勢のなかで、「組織内女性差別問題発生の根拠と総括」をめぐる議論が、中断することになる。その一方で、国鉄分割民営化反対運動の敗北の総括と総評の全民労協への吸収過程(のちに連合を形成する)をめぐる評価(酒井与七ら政治局多数派の「階級の敗北」論)や労働運動方針などをめぐって87年頃から公然と分派闘争が開始され、このことも女性メンバーの不信を募らせる結果になり、数年かけて女性メンバーが日本支部の組織から総離脱していくことになる。

1987年に女性メンバーによって第四インター女性解放グループが結成され、これへの対応をめぐって「女性メンバーの組織内独自結集」に反対した第4インターナショナル日本支部再建準備グループ(MELT)が分裂。さらに1989年には第四インターナショナル日本支部全国協議会(労働者の力)が分裂した。1991年、第四インターナショナル統一書記局派の第13回世界大会では、「日本小委員会の報告と提案」が報告され女性メンバーたちを除いた旧日本支部の状況を「第四インターナショナル支部としての資格欠如」と判断した(この時点で日本支部は日本革命的共産主義者同盟 (JRCL)と改称)。その根拠は、80年代初頭に表面化した性差別問題に男性メンバーの側が自己批判、総括を行いえていないこと、その結果、女性メンバー達の一部が独自のグループを結成する(第四インター女性解放グループ)事態をもたらし、女性と男性が事実上別個の組織に属するという事態を引き起こしていた点にあった。また、女性メンバーすべてが同グループに結集できていた訳ではなく、組織内分派として承認しないと主張して分派闘争を始めていた第4インターナショナル日本支部再建準備グループ(MELT)にも、旧日本支部女性メンバーは参加していた。世界大会の決定は「女性同志の意志に応じて女性同志を第四インターナショナルのメンバーとみなす」というものであり、女性解放グループが日本支部としての資格を承認されたという理解は誤りである。しかし、この時点で組織としての日本支部は事実上解体した。第四インター女性解放グループは結集軸であった社会主義婦人会議が1995年に解散し、それとともに女性解放グループの活動も停止した。

現在、日本革命的共産主義者同盟 (JRCL)と国際主義労働者全国協議会(労働者の力)の二つのグループが「支部」ではなく「パーマネント・オブザーバー・グループ」として第四インターナショナル統一書記局に参加している。1975年に中核派から第四インターに加盟し、1980年に脱退した村岡到は同年に個人党派「政治グループ稲妻」を「結成」するが、1995年に「解散」を発表。その後「ロゴスの会」「オルタフォーラムQ」などを運営している。2007年には「政治の変革をめざす市民連帯」に関与している。

2009年01月22日

人種差別(じんしゅさべつ)

人種差別(じんしゅさべつ、Racial discrimination、discrimination)とは、人種による差別のこと

人が自らとは異なる人種に対して形質的差異をもって差別すること。一般に白人、黒人、アジア人など、肌の色や顔立ちについての伝統的な人種観念に基づく差別をさすことが多い。対して言語や文化の差異に対する差別は民族差別と呼称される。

英語では人種差別と民族差別をひとくくりにしてレイシズム(racism)と呼び、区別が確かでない。また、人種の定義は変化しつづけているため本項目でも一部民族差別についての事案を取り上げる。

人種差別撤廃条約では、人種差別の定義を「人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するもの」と定めている。

これらの差別では、一方の人種を貶める事で、大々的にそれらの人種から搾取を行う場合が多く、不当搾取の前駆として、今日では人道上、忌み嫌われる行為となっているが、根強く差別が続いた地域で育った人や、悪意を持って差別をする事で何等かの利益を得ている人も少なからずあり、それら差別を行う側の存在が問題視されている。

ユネスコは1951年に「人種の優劣には根拠がない。」 「人種混交が生物学的に不利な結果をもたらすという証拠もない。」という「人種と人種差別の本質に関する声明」を出している。

歴史事例

概略
大航海時代以後の西欧人が新大陸のネイティブアメリカン、サハラ砂漠以南のネグロイド、を差別したことは歴史上では顕著である。また、同じ西欧人であってもアイルランド人など差別を受けた歴史をもつ民族も多い。風説などにより、一方の人種が生物学的に原始的であるとしたり、知能が劣る・野蛮であるとして、野生動物のように考えていた時代もある。
ソルジャー ルーツ りゅうき キャリ ニジェール ロック レード ハレルヤ こごた 茶色の小 バックシ タイヤ シホウチ コラン サイレ ジャーキー ハプテン ファースト ハプ くみん ケニア モンバ ギア ルーブル ニサバル 一致団 モザン パゴダ ツーソン カナイマ レツレツ ファイザー レジレソ フリートーク ひらたけ オペラ レソト チェダー レシオ サバト おとぎ ワッペ リップ エピス ハーフメイ モダニ マスツ アデス ディンイン すながわ

西欧人と人種差別
西欧人のなした人種差別

大航海時代以後の西欧人は近代的な軍隊により世界の大半を侵略、植民地化していった。植民地支配を正当化するため西欧人の優勢が主張され「優等人種である白人が、劣等人種である非白人に文明を与えるのは義務である」とされた。この優位性は、「白人こそが最も進化した人類である」という価値観さえ生む結果となった(ラドヤード・キップリング「白人の責務」、セシル・ローズの“神に愛でられし国・イギリス”思想など)。この考え方は次第に肥大し、学術分野に於いても各人種間に特徴的な差異を「一方の人種が劣っている証拠」とする説が発表され、優生学の名で正当化された。この中にあって進化論は大いに捻じ曲げられ、後の文化人類学発達を大きく妨げたと考えられる。

植民地、 植民地主義、および 奴隷も参照

西欧人に対する差別

古代ローマ帝国が地中海沿岸を属州として支配していた時代、ガリア戦記によるとガリアに住む金髪碧眼の人々は蛮族と見なされていたことがわかる。また、イスラム圏でも金髪碧眼は差別の対象であり、奴隷売買をするときは女性の金髪を黒く染めて、商品として出荷されていた。西欧はルネサンスを迎えるまでは文化後進地域であり、後ウマイヤ朝の時代、西欧人はコルドバに留学し、先進文化を学んでいた。十字軍の時代においても西欧人はビザンツ帝国の人々やイスラム圏の人々から蛮族として見なされていたことは有名である。

黒人と人種差別
サハラ砂漠以南のいわゆるブラックアフリカに住む黒人は古くからアラブ人やペルシア人の奴隷として扱われており、人種差別の対象であった。イスラム圏の偉大な哲学者であるイブン・ハルドゥーンでさえも黒人を差別の対象としている。アッバース朝時代には大規模な黒人奴隷の反乱が起きている。 大航海時代以降はヨーロッパ人が黒人を奴隷として使役した。ヨーロッパ人はアフリカ南部地域に住む黒人を奴隷として使役してきた。ヨーロッパ人に購入された黒人は奴隷船の船倉に積み込まれ、新大陸等の市場へ輸送された。奴隷市では商品として台の上に陳列され、売買された。彼ら黒人奴隷は人格を否定され、家畜と同様の扱いであった。軽い家内労働に従事できる者や奴隷身分から解放される者はごく少数だった。こうしたヨーロッパ人による奴隷制度は、1888年にブラジルが奴隷制度を廃止するまで続いた。

南北アメリカ大陸先住民と人種差別
ヨーロッパ人は、アメリカ・インディアンやマヤ、アステカなどの征服地、植民地支配における先住民を差別し、虐待・大量虐殺などを行い、伝染病の影響もあり先住民は激減した。(フィリップ・シェリダンの「よいインディアンとは死んだインディアンの事」発言)。スペイン領では、ラス・カサスらキリスト教伝道師が先住民保護に奔走するが、これは、結果的に労働力の代替としての黒人奴隷導入につながる。近代以降も白人、混血、先住民で社会階層が分かれている国家が少なくない。

2009年01月15日

白い座敷童子は吉事の前触れであり

ズンイン 紅葉遊 ミライン バックラ バンカメ コート トケーオー プチポワ スエード シート バーレル たいはく クール グワナ 江戸一 ひだまり チーク プラトーン ワンウェイ チャンス ナブスター フウトウ バリカ シェイク プロテ プロダク ルイジ ティブ 紫式部 まさかき ハンド はわい ネクタイ シタール ギガビ トラン モニタリ スキニー ネオナチ ポット ソイド スター 美人薄命 ググイウ リアリ サーチイスノ シンハ はさま セッション ナック

白い座敷童子は吉事の前触れであり、赤い童子(赤い顔、赤い服、赤い手桶を手にした童子)が目に見えるのは、童子が家を出て行くことによる凶事の前触れとの説もある。赤い服の童子を見た家族一同が中毒死した事例もある[10]。また『遠野物語』にも、座敷童子が去った家の家族数十人が毒茸を食べて全員中毒死するという事件が起こり滅びてしまったと書かれている[5]。一般的には座敷わらしに出会えると驚くほど幸運が舞い込むと言われているが、座敷わらしは危険や不幸を知らせるためにも人間の前に姿を現すことがあるという説の一つである。

東北地方では口減らしのために間引くことを「臼殺(うすごろ)」と言い、間引く子を石臼の下敷きにし、土間や台所等に埋める風習があり、同様に埋めると言う。間引いた子供の霊が雨の日に縁側をぶるぶる震えながら歩く様を目撃されたり、客に悪戯等の行為をすると言われている。同様に生後まもなく死亡した新生児を逆児と呼んで同様に家の下に埋めるといい、その霊が睡眠病や首下がり病の神になると言われている[10]。

二戸市の一帯では、かつて亡くなったり間引かれた子の供養のために部屋の一画に子供部屋を作り、菓子や玩具を置いて祀ったというが、この風習が現在でも残っており、座敷童子を家に居つかせ福をもたらせ栄えさせようと、部屋の一画に子供が好む小部屋を作る風習もある[10]。

民俗学で語られてきた座敷童子
柳田國男によればザシキワラシの起源を仏教の守護霊として「高僧が護法童子を天より呼んだのと同じく」民間巫女の守護霊にあたり、若葉の魂の清新さを尊重する信仰へとつながり、この神を子供を家屋等の守護者とする習俗に関係があると見て、神意を人間に伝えるため家の守護霊としてのワラシ信仰へとつながったとみている。『遠野物語』によれば南部曲家には「座頭部屋」と呼ばれる奥まった小さな空間があり「昔は家に宴会があれば必ず座頭を喚び」「これをもたせ置く部屋」だと説明されているが、これについて文学研究者・三浦佑之は、もっと原初的に言えば家の守護霊を祀る部屋だったのではないかと推測している[5]。柳田以降の民俗学でも、オクナイ様との繋がりや竜宮童子など異界から訪れる童子との関連などが論じられている[5]。

民俗学者・折口信夫はオクナイサマ、静岡の座敷坊主、徳島のアカシャグマ、沖縄のキジムナー、壱岐のガアタロなどの例を引いて、外の土地のある家のために働きに来る忠実な精霊がいて、いなくなると家が衰えると言う型の話と見た。そして座敷童子が庭に降りない点に注目し、かつての芸能が庭・座敷・舞台とに分けられていたことと関連づけて考えている[3]。

ザシキワラシが出て行ったことにより家が没落した話は、みすぼらしい老人の姿をした貧乏神が出て行くことで裕福になった昔話『貧乏神』と同じである。家を富ますこともできる貧乏神は福の神でもあるわけで、ザシキワラシの富貴自在とも一致する。富と貴の重層性は、家に居着く神を語る民間伝承のパターンといえる。童子と老人がともに神性を体現する姿だということは、民俗学によって明らかにされていることである。ザシキワラシのいる家が旧家であり、間引かれた子たちの霊と重ねられたり、村の外から訪れた六部(六十六部衆、座頭、遍路、山伏等)を泊めて殺害し所持金を奪い富裕になったが、殺されたものの祟りで子供が早死にしたり不具になるなど不幸がつづき家が没落していく名家の没落伝承、いわゆる六部殺し伝説(村落社会の中で家が急に栄えたり没落したときに囁かれる噂話。不幸が続く家に生まれた子供が「お父ちゃん、こんな晩だったね」と罪を告白する「こんな晩」型の昔話の定型。)と結び付けられ語られているなど、ザシキワラシは村落共同体の暗部(聖性と負性、栄光と没落を抱え込む座敷童子に対する村人たちの視線の複雑さ)を象徴する存在でもある[5][11]。

また、民俗学者・小松和彦は文化人類学的視点から童子に注目し、村落における家の盛衰や富の移動の問題を取り上げ、その属性にはイズナ使いなど「動物霊としての憑き物」とほとんど重複しているとし、そこに抱え込んでいる「精霊がついている」家に共同体の優越性と劣等性や、「民族社会内のそれも特に旧家層における貧富の差およびその変動の説明原理」としての童子霊の信仰について分析している